芸人さんから怪談話家として
有名な稲川淳二さんですが
若い頃はネタにもしていた恐妻との間に
息子さんが2人いらっしゃいました
長男は稲川貴洋さんで
俳優さんだそうですが
あまり知られた方ではないですね
次男・由輝さんは
先天的な難病クルーゾン氏症候群だったそうで
稲川淳二さんが
「命」や「バリアフリー」に関する
講演を行うのは
次男の存在があってのことでしょう
由輝さんの病気や
クルーゾン氏症候群について調べてみました
稲川淳二と次男由輝と妻尚子
名前:稲川 淳二 いながわ じゅんじ
本名:稲川 良彦 いながわ よしひこ
生年月日:1947年8月21(74歳)
出身地:東京都
お笑いタレント リポーター リアクション芸人
としても売れっ子だったが
現在は怪談トークが好評な
「霊感タレント」
というくくりならしい
デザイナーとしても実績があって
工業製品のデザインで世に生み出したものもあり
多才な人
その人柄は
稲川の人柄の良さは業界内では有名で、「稲川の悪い話は聞かない」と言われるほどである。すこぶる温厚、ユーモアのある人柄でありつつ、壮大なサービス精神を持ち前にしており(生来のサービス精神と場持ちのよさから、学生時代から「コンパ屋」の異名をとっていた)、他人のためなら自分を傷つけていいと思っており(リアクション芸において垣間見ることが出来る)、絶大なるお人好しだという。
Wikipediaより
そんな稲川淳二が
障害のある次男に向き合うことができなかったのは
意外な感じがします
1977年30歳の時に尚子さんと結婚
長男貴洋が誕生
1986年39歳の時次男由輝が生まれました
由輝くんは生まれつき頭骨の形成障害があり
重い障害を持っていたそうです
父稲川淳二はこの頃仕事も忙しかったのもあるでしょうが
次男が障害児であるということを受け入れることができず
名前を呼んであげることもしなかったそうです
4ヶ月のときに大手術を受けるときには
殺してしまおうかと思ったそう
12時間の手術に耐えた息子の姿に
生きようとする意思を感じ取り
自分の愚かさに気がついたといいますが
どうして男親ってこうなの!?
常識的に誠実にいきてきた証拠なのかもしれないけれど
圧倒的マイノリティーに耐えられないというか
こうでなければいけないという思いが
強すぎるんでしょうね
こういう時母親は肝が座ります
由輝くんのことについても
母は献身的に向き合っていたそうです
だって逃げたくても逃げられないのです
仕事という逃げ場があって
逃げてしまいたくなる気持ちもわからなくもないですが
稲川淳二は結局ほとんど家には帰らなかったそうです
そんな夫を見限ってか
もしかしたら夫が逃げることを許したのか
1990年
長男13歳、次男4歳の時
黙って引っ越しし
どこに暮らしているのかも知らせなかったそうです
所属事務所の社長と所属タレントとしての
関係は続いていて
現在に至るまで離婚もしていないことから
家庭を顧みず、障害のある次男から逃げた夫を
憎んでいるわけではなく
家族としても、ビジネスパートナとしても
仕事に専念できる環境を与えてあげているのかもしれません
そうであれば本当に懐の深い
愛情深い女性ですね
こういう妻を持った男性は
幸せです
そして一生頭が上がらないね
妻尚子さんは
由輝くんとのことを
2001年に出版しています
『ママと呼んで!由くん』
「物言わぬ難病の息子を持ち前の明るい性格で見守る母親の子育て奮闘記。」
「淡々と綴られる文章の中に幾筋の涙が隠されているのだろうか。必死に生きている親子の姿が美しい。」
クルゾン病の由輝くんの顔貌は
病気の特有のもので
この本の表紙になっているものが
本人だと思います
次男由輝の現在は?
2018年の8月に
東京新聞の取材で稲川淳二が話しています
次男の由輝(ゆうき)は5年前、26歳で亡くなりました。いい子でしたよ。優しい子でした。
頭の骨に変形がある先天性の重い病気でした。偉いのはね、親を恨んだり文句を言ったりするわけでもなく、いつもニコニコしていたことです。元気に生まれてきた人が自殺したり、人を殺したりする時代ですよ。障害のある人の生きる一日は、健常者の一日よりすごく大変なんです。でも息子はその日まで毎日、一生懸命生きたんです。そして私に、世の中にはいらない命はない、ということを教えてくれたんです。東京新聞より
2013年 26歳で亡くなったそうです
生まれつき重い障害があると言っても
ものも言わない人形のような状態ではありません
ちゃんと人格があって
優しい子でいつもニコニコしている子
そして
一生懸命生きた
次男が亡くなって数カ月後、家の近所を長男と歩いていた時、長男が「由輝ね、運動会で足速かったんだよ」と言うので、「うそだ。あいつ頭手術して、体に管も通っているし」と言ったら「一生懸命走るんだよ。ほかの子を抜いたよ」と。「鉄棒も上手だったよ」と。
小学校の時のエピソードです
かけっこも鉄棒もできたんだ
一生懸命走ったり、鉄棒したり
その生命は輝いていましたね
稲川淳二は当然その頃のことを知りません
小さい時以来妻と次男には全く会っていなくて
長男だけが時々会いにやってきたそうです
長男から亡くなった知らせを受け、病院の霊安室に駆けつけました。手を握ると、由輝が5つぐらいの時、病院の廊下を手をつないで歩いたことを思い出しました。あれ以来、手を握ってあげなかったな。そう思うと、たまらなかったです。
「そばにいて見てあげたかった。ほめてあげたかった。おまえは一生懸命生きたんだな」と思ってね。
亡くなってから思っても遅い
それでも次男に感謝して前を向いていますが
稲川淳二の思いと
それぞれの思い
胸が張り裂けそうな
たまらない気持ちになります
本当に
「一生懸命生きた」
その生命は輝いて
いらない命なんかではなかったです
生まれつきの難病クルゾン病とは
クルーゾン症候群ともいわれるその病気は
神奈川県立こども医療センターHPによると
遺伝子の異常により
頭蓋骨の成長ができなくなってしまう
奇形で
頭部や顔面部の骨が大きくなっていかないため
眼球の突出や、頭痛、吐き気といった
脳圧の上昇による症状が現れます
頭蓋骨の成長が止まるのは
成長とともに起きることが多いのですが
由輝くんは生まれてすぐか
胎児期には頭蓋骨が小さく
生まれてすぐに診断がついたようです
通常は頭蓋骨が小さいだけで
脳や神経の成長に問題はなく
頭蓋骨を拡大するための手術を
生涯のうち複数回繰り返すことで
症状を取り除くことができますが
由輝くんは脳の成長を阻害するほどに
早期に頭蓋骨の成長が止まったか
他の先天的な異常を併せ持っていたのか
重い障害を抱えることになりました
生まれた時から脳圧の上昇による
頭痛や吐き気があったなんて
辛かったでしょうね
その後の手術も
顔面の骨の成長が止まる18歳くらいまでに
何度も行わなくてはならない上に
骨を延長するための手術なので
いわゆるプレートや固定器具をつけて
少しずつ骨を動かしていくものになり
すごく大変な手術です
でも何度か手術して
走ったり鉄棒ができたりするくらいだったのに
26歳で亡くなってしまうのは
なぜなのでしょう
26歳ころには
手術も完了して
顔貌も随分変わって
これからというところまで
頑張ってやっとたどり着いた頃でしょうに
なんて悲しいのでしょう
まとめ
稲川淳二の次男由輝くんは
年間発症が20人前後と言われる
本当に珍しい
先天的な病気を持って生まれました
そして残念ながら
26歳でお亡くなりになりましたが
「息子は私の中に永遠に生きていて、命や人の思いについて教えてくれます。」
「そして私に、世の中にはいらない命はない、ということを教えてくれた」
そうです
障害のある子どもを持って
その存在を認められず
苦しんでいるお父さんやお母さんがいたら
知ってほしいと思う
エピソードでした
そして社会のみんなが
世の中にいらない命はないということを
知ってほしいと願うのでした
最後までお読みくださり
ありがとうございました
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